昨日の続き

「拘る真宗か・拘らない真宗か」
いずれの事項についても浄土真宗は教義的には 「拘らない」 というのが、伝統だと思いますが、「拘る浄土真宗」 と言われても仕方のないことが沢山あります。これは教義の勉強が厳しい宗派ですから、つい理屈が先行して必要以上に固定化してしまう傾向も否めません。 教義には拘って結構と思いますが、葬儀などの宗派に関係ない不特定の皆さんが集う場所では、 あまり教義に拘らない柔軟な作法が真宗門徒らしいと思いますが、お考えは色々でしょう。 物事を固定化すると拘りが出来て、差別に繋がります。
親鸞聖人の教えは人間らしく素直で滋養たっぷりな教えです。

「門徒物知らず」 という有名な言葉がありますが、「拘らない門徒」 「物忌みしない・門徒物忌み知らず」 という意味から言われているものであることは確かですよ。

次に献杯です
お葬儀の現場では、おくりびと、花屋さん、搬送業者などの他に 「司会」 を生業とする人も加わることが多いのです。
特にお斎(おときと読む・食事)の席ですが、 「今日は浄土真宗のご葬家ですから献杯はありません。」 と言う人があります(これは収骨の時 「相はさみ」 をしないと言うのと同じですが・・)。
葬家から頼まれれば仕方ないですが・ 誰に教わったのか?・(でも間違いとはいえません)。 しかし席に着いている人はキョトンとしてしまうことがあります。 料理にどういうきっかけで箸をつけていいか?戸惑うのです。

浄土真宗でも 「献茶」 とか 「献華」 の儀式と言うのはあるのです。「献杯」 の言葉を使っても間違いとはいえません。ただ、杯を挙げる意味が違うのです。 それは、飲み物も食べ物も 「授かり物」 と言う考えが伝統ですから、死んだ人に捧げるのでなく、み仏への 「お供え」 または死者への 「感謝」 なのです。
これは司会者を責めるより日頃の僧侶の活動で定着させるべき問題でしょう。
ですから、宗派に関係ない不特定の皆さんが集う場所では、あまり言葉に拘ることはないでしょう。このような場所では、「献杯」・合掌して「頂きます」 で良いのではないでしょうか?

因みに、真宗では食事の作法で 「食前の言葉」 とか 「食後の言葉」 と言うのもあります。

ついでに、申し上げますと、幼児教育の給食の場で 「合掌して・頂きます」 が 「宗教行為」 だと言って、合掌イタダキマスを排除しているところがあるそうです。 特に公立の場合が多いそうですが、政教分離もここまでやる必要があるのでしょうか?疑問です。

友引について・
私達は全く問題にしませんねー! ただ火葬場がお休みになりますから火葬はその日を避けますが、火葬場もたとえ迷信でもお休みする機会がないから、仕方ないのでしょう。六曜は六輝(ろっき)という中国の時間の数え方らしいですが、時間の吉凶を占うものらしいので、占いを否定する浄土真宗では使いません。
ただ、占いも一般に楽しみしている人もいるからあまり煩く言うと「浄土真宗てどうして何でもダメというの?」と嫌がられるかもしれませんね。 浄土真宗は宗教の中で 「仏法」 ですから、自分の人生の一瞬一瞬の決断を占いに頼るわけにはゆきません。 私達の決断は現在・過去・未来を貫く道理を判断基準にします。このことは長くなるので別の機会に書きます。 

忌明けとは?
77(しちしち)日・49日(しじゅうくにち)・満中陰(まんちゅういん)とも言いますね。次頁へつづく